執筆者:Joan Poqui

 当時のクバラを例えるなら現在のメッシを想像すればいい。バルサの歴史のなかで、クバラとメッシほどチームに影響を与えた選手はいないからだ。

 クバラは16歳のときにフェレンツヴァーロシュ(ハンガリー)でデビューしたあと、18歳でSKブラチスラヴァ(チェコスロバキア)に移籍した。1949年1月にハンガリーが社会主義国家になったとき、クバラはトラックの荷台に隠れて亡命した。

 連合国占領下のオーストリアからイタリアに入ったクバラは、イタリアで少しプレーしたあとトリノ移籍に近づいた。しかし、息子が病気になったためこの契約を断る。トリノの選手を含む乗客31人が亡くなった航空機墜落事故"スペルガの悲劇"が起きたのは、その直後だった。

 1950年、クバラは難民で構成されるチーム"ハンガリー"を結成。レアル・マドリード、スペイン代表、エスパニョールなどと親善試合を行った。この試合でクバラを見たマドリードとバルサがオファーを出したが、クバラはジョセップ・サミティエの説得でバルサ移籍を決めた。1950年6月15日だった。

MundoDeportivo編集部

著者プロフィール MundoDeportivo編集部