執筆者:Joan Poqui

 そもそもこの移籍において、クライフはアヤックスと揉めに揉めていた。退団が避けられないと分かったヤープ・ファン・プラーフ会長が、それならばレアル・マドリードに売ってやると復讐を計画したほどである。

 最終的にバルサ移籍を成し遂げたクライフだが、実はこの3年前にも実現する可能性があった。1969年12月に新監督に就任したヴィク・バッキンガムが、まず最初に希望したのがこのクライフの獲得である。当時のバルサ会長アグスティ・モンタルはすぐに動き、1970年3月7日のムンドデポルティーボには、バルサがアヤックスと合意に達したという記事が掲載された。

 しかし、この移籍は実現しなかった。外国籍選手獲得禁止の規定が継続されたためだ。この規定には多くのクラブが反対していたため、バルサは次の総会で撤廃されると信じていた。しかし1970年3月9日に行われたスペインフットボール連盟の総会で反対票を投じたのは、バルサを含めてたった5クラブだった。

 スペイン人選手を守るために生まれた規定だが、結果的にこれはスペインのフットボールの成長を妨げるものでしかなかった。1970年のワールドカップメキシコ大会出場を逃したあと、連盟はようやくこの規定を見直している。それでも最初はリーガでのみ出場を認め、カップ戦には出場できないというような馬鹿げた改定だった。

 いずれにせよ、1970年の時点でクライフはもうバルサに夢中だった。オランダもまたワールドカップ出場を逃していたため、クライフはバカンス中にバルセロナに飛んで、当時アスルグラナを率いていたバッキンガムの自宅を訪ねている。バッキンガムはアヤックス時代にクライフをデビューさせた人物だ。

『RB』誌の編集長カルロス・バルニリスは、クライフとその妻ダニー・コスターがマヨルカに滞在しているという情報を入手すると、夫婦をバルセロナに招待した。そしてこのアヤックスの選手にアスルグラナのシャツを着せ、カンプ・ノウで写真を撮影している。今では考えられないような話だが、この写真は『RB』誌第273号の表紙を飾った。

MundoDeportivo編集部

著者プロフィール MundoDeportivo編集部