執筆者:Xavier Munoz

エレニオ・エレーラ - バルセロナとミラノで大きな勝利を収めた指揮官

 エレーラはバルサとインテルの歴史のなかで、最も記憶に残る監督のひとりだ。"魔術師"もしくは"H.H"の愛称で呼ばれた指揮官は、1958年から1960年にかけてバルサを率いた。キャリア終盤のラディスラオ・クバラや、成長を続けるルイス・スアレスを擁したチームは、全盛期のレアル・マドリードを抑えてリーガで2回優勝したほか、フェアーズカップとコパ・デル・レイも1回ずつ獲得している。

 1960年にクラブを解雇されたエレーラはインテルに入団した。そして1968年までにスクデット3回、チャンピオンズカップ2回、インターコンチネンタルカップ2回をモラッティ・ファミリーに与えている。

ルイス・スアレス - インテルを栄光に導いたクラック

 ルイス・スアレス・ミラモンテスのインテル移籍には、エレーラが大きく関与している。指揮官は加入直後からモラッティにスアレス獲得を要求していた。1961年のチャンピオンズカップ決勝でバルサがベンフィカに敗れたあと、スアレスは当時の移籍金最高額でミラノにやってきた。現在までスペイン人唯一のバロンドール獲得者は、のちに"グランデ・インテル"と呼ばれる黄金時代の中心選手になる。1970年までにスクデット3回、チャンピオンズカップ2回、インターコンチネンタルカップ2回を獲得した。

ロナウド・ナザリオ - カンプ・ノウの閃光からサンシーロでの負傷まで

 エレニオ・エレーラがアンジェロ・モラッティ会長にルイス・スアレスを希望してから35年後、今度はそのスアレスがアンジェロの息子マッシモに助言した。ロナウドの獲得である。だが、1996年にマッシモ・モラッティはPSVに25億ペセタを支払うことをためらう。結局、その金額を支払ったのはバルサだった。

 アスルグラナで37ゴールを記録したロナウドをみたマッシモは、1997年に40億ペセタを支払ってこのブラジル人を獲得する。インテルでは2002年まで所属して通算68ゴールを記録したが、負傷で常に安定したパフォーマンスを発揮することはできなかった。

サミュエル・エトォ - 2つの三冠

 バルサとインテルの両クラブでプレーした選手リストには、エクトル・スカローネ、ルイス・フィーゴ、ローラン・ブラン、チアゴ・モッタ、エドガー・ダヴィッツ、フィリペ・コウチーニョ、アレクシス・サンチェスなどもいる。しかし、サミュエル・エトーよりも成功を収めた選手はいないだろう。

 インテルはズラタン・イブラヒモヴィッチの移籍金の一部に、このエトォを要求した。このカメルーン人選手は、2009年にバルサ史上初の三冠を経験した翌年、今度はインテル史上初の三冠のメンバーになった。

レアル・マドリードを強化するインテル

 インテルからバルサに移籍したイブラヒモヴィッチやマックスウェルなどと、バルサからインテルに移籍したエレニオ・エレーラ、スイス・スアレス、サミュエル・エトォを比較すると、インテルのほうが良い利益を得た印象を受ける。

 バルサが不満なのは、彼らがレアル・マドリードに利益を与えていることだろう。例えば、1996年にモラッティは、史上最高のフルバックのひとりロベルト・カルロスをわずか6億ペセタ(現在の価値で300万ユーロ)でマドリードに販売した。2002年に放出したロナウドにいたっては、ベルナベウで過ごした5シーズンで104ゴールを記録している。

 もちろん1964年5月27日に行われたチャンピオンズカップ決勝には感謝している。彼らはレアル・マドリードを3-1で破って優勝した。あれはディ・ステファノ時代の終わりを告げる試合だった。

MundoDeportivo編集部

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