執筆者:Xavier Munoz

 1931年、バルサはスペイン遠征中のバスコ・ダ・ガマから数名の選手を獲得しているが、そのなかにいたのが最初のゴールキーパー、ジャグアレ・ベセーラ・デ・バスコンセロスだ。ジャグアレは1931/32シーズンにバルサでプレーして、コパ・カタルーニャ優勝に貢献している。

 1926年にスペインで承認された規則により、当時の外国人選手はアマチュア契約に限られていた。ジャグアレとプロ契約を結びたかったバルサはスペインへの帰化を勧めたが、本人はこれを断ってブラジルに帰国する。

 バスコ・ダ・ガマに復帰したあと、ジャグアレは1935年にスポルティングに移籍した。10月23日のムンドデポルティーボには「元バルサのジャグアレがイタリア経由でリスボンに到着」という記事がある。

 1936年、ジャグアレはマルセイユに移籍。ここではフランスリーグやカップを優勝し"ジャガー"のニックネームで愛された。1938年のフランスカップでは、チームメイトが獲得したペナルティキックを決めている。これは現在までマルセイユのゴールキーパーが記録した唯一のゴールだ。

 ジャグアレはそのキャリアもプレースタイルも異色だった。もともとリオデジャネイロの港で船から荷物を降ろしたり積み込んだりする仕事に就いていたが、その仲間とフットボールを行っているときにバスコ・ダ・ガマの関係者の目に止まったのがキャリアの始まりだ。当時23歳だった。

 試合中にたびたびボールを敵に投げ返したことでも知られる。ある試合で、顔めがけてボールを投げられた相手が抗議したが、レフェリーはファウルではないとジャッジした。またブラジル人ゴールキーパーとして、初めてグローブを着用した選手もこのジャグアレだと言われている。

 ただ、上記のような性格が災いしてか、ジャグアレはマルセイユを除くクラブで短期間しか過ごせなかった。1940年にサンクリストヴァンFRを退団したあとは、ヨーロッパで得た金銭も使い果たす。このとき、アルコールの消費量は相当なものだったそうだ。

 再び港の仕事に戻ったジャグアレだが、周囲の人間は彼がフットボール選手だったという話を全く信じていなかったという。ジャグアレはこの仕事もすぐにやめ、サンパウロ州にあるサントアナスタシオという小さな街に移動した。

 ある日、警官と衝突したジャグアレは、頭を殴打されて死んだ。留置場に入れられたあと、壁に頭を叩きつけられたともいわれている。そのなきがらは住所不定者の共同墓地に埋葬された。その墓標には1946年8月27日と刻まれている。わずか41年の人生だった。

MundoDeportivo編集部

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